美しき青きドナウ、なんて言うけれど、実際私の目の前に横たわるドナウ川は、萌える木々をその水面に映し出して、深く優しい碧色を湛えている。
白い船頭で静かに水面を左右に割りながら、船は進む。
今や遥か後方の両岸に、音を立てて波が打ち上げられるのを、私は半ばまどろみながら眺める。
「気持ちいいねえー。」
振り向くと、風を集めるように両手を広げて立つアネゴが微笑んでいる。
我らがウィーンの住まい、まつねこ荘の隣室に住む、ピアノの留学生だ。
オーストリアの初夏の日差しは、まだ肌を焼くほど厳しくなく、心地よい暖かさで私たちを包み込む。
「週末最高だねえ。」
オーケストラ弾きになって、私が失っていたものの1つに曜日感覚がある。
音楽家は、土日祝日に働くことが多いため、金曜日を心待ちにするOLの友人たちの心境は、長らく謎だった。
そんな私も、今では恐怖のレッスンの水曜日を生き延びた後にやってくる週末が待ち遠しい。
ウィーンの音大では通常、土日は授業もレッスンもない。
その自由時間を利用して、私たち留学生は週末に小旅行に出かけることが多い。
日本ではどんなにインドア派だった人でも、期間限定で留学をすると、大抵旅人になる。
日本からわざわざヨーロッパまで海外旅行をしようと思うと、大変なお金と時間がかかるが、ヨーロッパに住んでいれば、ほんの少しの時間と費用であちこちの街、それどころか海外にだって出かけることできるからだ。にわか旅人になりたくなるというものである。
今日、私たちまつねこ荘の住人は、ヴァッハウ渓谷というウィーン近郊の景勝地でドナウ川の船旅に出ている。
「気持ちいいし、明日学校休みだし、もう最高だわ。」
来週のレッスンまで、まだ少し間があるというのも嬉しいが、授業がないというのもまた嬉しい。
日本では勉強について行けなくて困ったという経験は特になかったが、ウィーンでの私は筋金入りの落ちこぼれである。
教科書に書いていることは読めないし、教授の話していることももちろん全くわからない。テストでは、回答どころか質問の意味すらわからない有様である。
それでも何とか皆についていきたいので、講義に録音機器を持ち込んで講義内容を録音したりする。それを家で何度も再生し、聞き取れる僅かな言葉をノートに書き出して、その意味を1つ1つ調べていくのだ。大抵10個くらい調べたところで、ようやく教授が何について話していたかを察することができる。
そんな泣きそうな作業も、今日はお休みだ。
「まつねこは来年日本に帰るんだし、卒業する必要ないんだから、授業なんか出ないでレッスンだけ行ったらいいのにー。」
アネゴが不思議そうな顔で、実にもっともな意見を口にする。
「わかってるよ。でもさ、1年限定の留学だと思うと、欲張るもんなんだよ。やる権利のあるものは取り敢えず全部やっとけ、ってなるんだって。」
私は苦笑しつつ、そう答える。
日本の学生時代に、これだけ真剣に勉強していたら、もしかしたら違う未来が待っていたかもしれない。
でも、そういうことに気づくのは、いつだって何年も経った後のことなのだ。
今、ウィーンの音大の授業に出ていることだって、将来何かの役に立たないとどうして言えるだろう?できることを、できる間にやっておくということは、未来の可能性を広げるために役立つことなのではないだろうか。
まあ、全く何の役にもたたなくて、時間の無駄になるというリスクも大いにある訳だけど。
「なんや、まつねことアネゴ、ここにおったん。」
「もうすぐデュルンシュタインやで。」
船内にいたバンビとツムギが賑やかにデッキへと駆け上がってくる。
川岸の緩やかな丘には、一面の葡萄畑が広がっている。その後ろにそびえる、切り立った山の頂上には、石造りの城の廃墟が望める。
淡い水色の塔を持つ修道院のほとりで船を降りた私たちは、中世の面影を残す石畳の街へと足を踏み入れる。
「あ、ワインの試飲があるやーん。」
船を降りて数歩も行かないうちに、店頭に大きなワイン樽が置かれた店を目ざとく見つけたツムギとアネゴが、あっという間に店内に吸い込まれていく。
「。。なんか飲めないと損した気分になるよね。」
取り残された私とバンビは、その素早さに茫然としつつ、顔を見合わせる。
「じゃ、この隙におにぎり食べへん?私握ってきてん。」
「うわー、梅ゆかりのふりかけじゃん!貴重品!!」
バンビが差し出したおにぎりに私は思わず歓声を上げる。
一口かじると、ほろりとほどけた米粒が床に落ちていく。
一介の留学生には、高価な日本米など買えるはずがない。私たちがウィーンで購入する米は、大体が日本米に最も近いと言われる種類のイタリア米だ。
とはいっても、日本米ほどモチモチしている米などは存在しないので、おにぎりはどんなにしっかり握っても、なかなか形を留めていてくれない。
おにぎりが完全崩壊する前に、私は慌てて残りを口の中に押し込みながら、こんな何気ない一瞬も、また懐かしいと思う日が来るのかもしれない、と思ったりする。
「バンビは、来年どうするの?」
服にこぼれた米粒を手ではたきながら、私は何気なく尋ねる。
「そうやなあ。コース修了までもう一年あるし、あと一年はウィーンにおるつもりやけど、その後はわからんなあ。」
「ウィーンに残りたいと思う?それとも日本に帰りたいと思う?」
「どこかオーケストラに入れたら、おってもええんやけど、学校出たら滞在許可が取れんからなあ。」
そうなのだ。
外国人である限り、私たちはそこに存在するためだけにも許可がいる。
苛立たしい手続きなく、自由にいたいだけいていい日本という祖国が、私には時々きらきらと輝いて見えることがある。
「実はドイツに行くことも考えてるねん。ドイツのほうが、就職できる可能性は大きいやろ。」
バンビが少しだけ真剣な表情でそう呟く。
確かに、オーストリアは小さな国なので、オーケストラの数自体が少ない。その割に音楽家の数が多いため、そこに席を得ようと思えば、激戦を覚悟しなければならない。
その点、ドイツならばオーケストラの数も多いため、採用される確率も高くなってくる。
「ドイツで働くには、ドイツで勉強しておいたほうが有利だもんね。」
「そうやねん。でも、オーストリアとドイツでは奏法が違ったりして、またややこしいねん。」
「なになに、どうしたん?そんな深刻そうな顔して??」
ため息をついた瞬間、背後からにぎやかな声と共に、ツムギとアネゴが現れる。
「いや、将来どうするのか、っていう話してたんだよ。」
「あー、将来な。確かに、来年自分がどこで何しとるかわからんなあ。」
ツムギがあっけらかんと言う。
「私は卒業したら日本に帰るよ。お母さんのピアノ教室を継ぐからね。」
きっぱりと胸を張って、アネゴは宣言する。
「そうかなあ。アネゴはなんだかんだこっちで結婚して残りそうだけど。」
「え。。。まあ、、、それはそれで、、ありかも。」
私の入れた茶々に、アネゴはペロリと舌を出す。
「まつねこは、日本のオーケストラに帰るんだよね。」
「ええなあ、帰るところがあって!」
ツムギとバンビのその言葉に、私は小さく肩をすくめる。
確かに私は本当に幸せものだと思う。帰る場所を保障しながら、期間限定で外に出してくれた日本のオーケストラには感謝しかない。
日本の仕事にも生活にも不満は何一つない。秋にはそこに戻れる。こんな安定した状況で留学してくる人はそんなに多くない。
実は、日本を出てきたときは、先の見えた未来がちょっとだけ怖かった。
ずっとオーケストラでバイオリンを弾いて、いずれ誰か好きな人に出会って、結婚して、家庭を持って、家庭と仕事を両立していく。
そんな見通しの良い未来に、私はなぜだか恐怖のようなものを感じていたのだと思う。
でも、自分の力を強く信じて、暗中模索で未来を切り開いていこうと必死にもがく、ウィーンの留学生たちに出会ってからは、それがとてつもなく甘い考えだったことを実感する。
私たちは、再び並んで街を歩き始める。
特産品のアプリコットのジャムやアプリコット酒を売る店をのぞいたり、鮮やかな花で飾られた細く急な石の階段を上ったりしつつ、やがて私たちは古城ホテルが建つ、見晴らしのよい高台にたどり着く。
「わあー、見て!きれいだねえ!」
眼下に遥か広がる葡萄畑とドナウ川。
川の上には、白く尾を引いて何隻もの船が行き交っているのが見える。
「写真撮ろう、写真!」
無邪気にはしゃぐまつねこ荘の同居人たちを眺めていると、ふいに私の胸はいっぱいになる。
今、こうして当然のようにウィーンで一緒に生活している私たち。
でも、近い未来には、わたしたちはそれぞれの場所で、それぞれの生活を送るようになる。
人生はきっと船旅のようなもので、今私がウィーンで一年生活していることは、船が短く停泊したその街で過ごす、わずかな時間のようなものなのだろう。
再び出発する時が来たら、私たちはバラバラの船に乗り、それぞれの行き先に向かって旅立っていくことになる。
「ねえ、誰か帰りの電車の時間と駅の場所知ってる?」
「知らん。」
「知らん。」
「知らない。」
「まじで。大丈夫なの?私たち。」
にぎやかにはしゃぎながら、私たちは元来た道を引き返す。
二度と戻らない時間を、大切にしたいと思う。
見るもの、聞くもの、触るもの、全てが真新しいこの一年を、生まれたばかりの子供のような好奇心で、留学最後のその日まで、わがままに、欲張りに体験して行きたい。
一秒たりとも何気なく過ごすことのないように。
ここで出会った仲間たちと一緒に。
OP.9 留学の話。 その3 「美しき青き」