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「えー、まつねこ、シエナに行くんや!」

バンビが、楽しそうにパソコンをのぞき込む。

「言っとくけど遊びじゃないよ、キジアーナ音楽院の講習会だよ。」

まつねこ荘、と私たちが勝手に呼んでいる、このシェアアパートメントの住人達は、練習できるリミットの時間22時を過ぎると、自然とリビングダイニングという名の、元サウナのバンクに集まってくる。

ここで遅い夕食を摂ったり、明らかに体に悪そうなお菓子を頬張りながら、健康保険会社の窓口で受けたあり得ない対応の文句や、道端で謎のおじいちゃんにナンパされたなどの話から、将来の夢や不安などの真剣な話まで、夜が更けるまでとりとめなく語り合うことが何となく私たち達の日課になっている。

「シエナでは誰のレッスンを受けるん?まつねこの先生が教えてるん?」

バンビができたてのスープをかき混ぜながら尋ねる。白い湯気にのせて、ほわっ、と良い香りが、台所に漂う。

「私の先生も教えてるけど、先生はカルテットしか教えてないんだよね。私はソロで受講したいから、私の先生のレッスンは聴講にするしかないかな。私はイタリア人の先生のソロのレッスンを受ける予定だよ。」

レッスンの聴講では、先生にレッスン室から叩きだされるグループの後を、追いかけて慰める役割になるのだろうな、と薄々察しつつ、私は返す。

「そうなんや。夏のシエナ、良さそうやねえ!」

 

夏かあ。

 

バンビの太陽のような笑顔とは裏腹に、私の心にはほんの少しだけ影が差す。

去年の9月の中旬から1年の休暇をとって留学している私は、今年の9月には完全帰国する。

弾き慣れた日本のオーケストラ、優しい同僚と街の人々。給料ストップの激貧生活ともおさらばだし、言葉や人種、滞在許可のことでもどかしく思ったり腹を立てたりする必要もなくなる。

懐かしくて嬉しくて、今すぐにでも飛んで帰りたい気持ちが溢れる一方で、なぜかもう少しここウィーンに留まりたいと囁くもう一人の自分がいる。

この一年間で、私は何か変わっただろうか。ドイツ語はゼロからのスタートだったので、確かに少しは上達したのではないかと思う。でも、バイオリンは?今までの悪い癖を崩しただけで、一年が過ぎ去ってしまったのではないだろうか。もう少しここに留まって、先生の下で学ぶことができたのならば、新たに築き上げられるテクニックがあったのではないだろうか。

半熟状態の私自身へのフラストレーション。

そして、一つの人生の季節が終わる憂鬱。

わくわくして読み進めてきた物語の残りの頁が徐々に薄くなり、もうすぐ終わってしまう時に感じる、あの気分だ。

「こんな長い夏休みは多分人生最後だから、イタリアの夏を楽しんでくるよ。実はね、シエナに行く前にボローニャに寄り道して野外オペラを見てこようかと思ってるんだー。」

心に差し込んだ影を振り払うように、私はわざと明るくそう言ってカレンダーを眺める。

ウィーンの大学生の夏休みは長い。なんと7月の頭から9月の終わりまで、まるまる3か月間休みなのである。

一見素晴らしいようにも思えるが、一年しかない留学生活、できるだけたくさんレッスンを受けたい私にとっては、この何もない期間というのは結構痛い。休みをちょっとでも有効利用しようと計画したのが、今回のシエナの講習会なのである。

「ただいま~。」

その時、柔らかい声がして、もう一人の同居人のツムギがリビングに顔を出す。

「ツムギ、お帰り。コンサートだったの?」

全身黒い衣装を身にまとい、楽器ケースを肩に担いでいるツムギに、私は尋ねる。ツムギはこのシェアアパートメントの中で、ウィーン在住歴が最も長い。私よりもずっと年下の彼女だが、学校も卒業間近だし、あちこちで仕事もし始めているようで、ちょっと眩しく思えることがある。

「そうやねん。あ、まつねこ郵便来てたよ~。」

ぴらっと横に長い、薄い封筒を一枚ツムギは私に手渡して、鼻歌を歌いながら部屋に戻っていく。

誰からだろう。

封筒を両手に持ってひっくり返し、私は一瞬動きを止める。

差出人の欄に、ドレスデン国立歌劇場、とあり、その隣に小さなオペラ座のマークのスタンプが押してある。

どきん、と心臓が波打つ。

私は慌てて封を切って中身を取り出し、

そして、

思わず絶句した。

「、、、オーディションの招待状だ、、。」

 

そういえば、今年の春ごろに、ドレスデンの国立歌劇場が期限付き契約の助っ人奏者を募集していたのを知って、申し込んでいたのだった。

もうそれから数か月も経っていたし、帰国も目の前に迫っていたので、そんなこときれいさっぱり忘れていた。まさか今頃オーディションの招待状が来るなんて。しかも、、、

「オーディション日、2週間後なんだけど、、。」

思わず私は半眼になる。

2週間でオーディションの準備?

間に合うはずがない。

「なになに、なんて?あ、招待状!すごいやーん!」

その時、手紙をのぞき込んだバンビが歓声をあげる。

「いや、どう考えても無理でしょ。2週間後だよ、2週間後。しかも、この日ボローニャに出発する日だし。もう飛行機のチケットも取っちゃったもん。」

頭を振って、手紙を封筒に戻そうとする私に、バンビが言う。

「でも、2週間後のオーディションの招待状なのに、オーケストラスタディの楽譜とか同封されてないん?」

、、、確かに。

日にちが迫ったオーディションならずっしりと分厚い試験曲の束が同封されているのが普通である。こんな薄っぺらい紙切れ一枚の招待状とはどういうことだろう?

私は、しまいかけていた手紙を再び引っ張り出し、文面に目を落とす。

「試験曲、、、。モーツァルトのヴァイオリン協奏曲一曲と、ロマン派以降のヴァイオリン協奏曲一曲、、、。あれ?オーケストラスタディは?」

そんなはずはない。

オーケストラスタディのないオーディションなんて。

私は再び始めから読み返すが、何度読み返したところで、当然書いている内容は同じである。

「受けたらいいやーん。いいオーケストラだよ、ドレスデン。」

「そうそう、ボローニャなんていつでもいけるんだからキャンセルしちゃえばいいんだよ。」

いつの間にか、ルームウェアに着替えて台所に戻ってきていたツムギと、隣の部屋に住むアネゴも話に加わっている。

他人事だと思って、みんな実に言いたい放題である。

 

どうしてだろう。

 

今の今まで、ヨーロッパの生活はもう終わりなのだと思っていたのに、心は半分日本に帰りかかっていたのに、オーディションなんてなかったことにして、イタリアの夏を満喫した方が、ずっと気楽なのに。それなのに。

どうしても招待状から目が離せない自分がいる。

本当に試験曲がオーケストラスタディなしで、協奏曲2曲のみだったら、準備は間に合うかもしれない。

日本に帰れば、もう二度とヨーロッパのオーケストラのオーディションを受ける機会はやってこない。

 

ここで弾かなかったら。戦わなかったら。

 

きっといつの日か後悔する日が来るんじゃないだろうか。

まつねこ荘のリビングに響き渡る、にぎやかな同居人たちの声が、随分遠くに感じられる。

明日までには決断しなくてはならない。

今夜はとても眠れそうになかった。

 

 

 

硝子のようにつるりと硬質な青空が、どこまでも彼方までのびている。

空気はとびきり乾燥していて、もう夕方だというのに、まだじりじりと暑い。

「よいしょ。」

まつねこ荘の向かいにあるトルコ人が経営する激安ショップで、20ユーロでゲットした黒のトランクを担ぎ、私は駅の階段を駆け下りる。

「こっちで良かったかな、、。」

黒ずんだ石造りの、小さなその駅の改札を出て、私はホテルのアドレスをチェックする。

建物の壁を見上げて、通りの名前を確認しながら、進む足取りは思ったよりも軽い。

明日は、オーディションだというのに、不思議と気負いや緊張はほとんどない。

石畳にガラガラとトランクの騒音を響かせながら、暗い色やレンガ色の重厚な建物の間の道をぬって私は足を進める。所々の建物の壁は劣化してはげ落ちており、酷いものでは、窓ガラスが割れたままになっているものまであった。

やっぱり来てしまった。

受かるか落ちるか、その結果に正直あまり興味はなかった。留学の集大成として、必死に準備したその成果を出せれば十分だ。

駅から5分ほど歩いたところに、予約したアパートメントホテルはあった。手早くチェックインを済ませ、部屋にトランクと楽器を置くと、私は夕食の買い出しがてら、明日のオーディション会場の下見をするため、再び外に出る。

ドレスデンの街並みは、白く輝くようなウィーンの街並みと違い、どこか暗く重たい陰鬱な印象を受ける。

受かったとしても、ここに住めるんだろうか。

自分自身に問いかけつつ、しばらく足を進めると、やがて緑に囲まれた、小さな池に差し掛かる。

「ホールは、、、こっちだな。」

地図を頼りに、緑の小道に足を踏み入れる。木々の屋根が太陽の日差しを遮る小道は薄暗く、ひんやりと心地良い。

池に沿ってゆるく折れ曲がりながらのびていく緑の小道を辿ってゆくと、徐々に木々の影が薄くなり、再び太陽の光が道を照らしだす。その時、

 

ふいに、目の前が大きく開けた。

 

広大な赤い石畳の広場。

広場に面して、重厚な構えの巨大な宮殿と、黒い教会がそびえたっている。そして、

 

「ゼンパーオーパーだ・・・」

 

広場の主のように、そこにどっしりと腰を据える石造りのオペラ劇場を目の前に、私はしばし言葉を失って立ち尽くした。

 

魔力のある光景だった。

ずっとずっと眺めていても飽きたらない。

 

運命に、風が吹くことがある。

その風は抗い難い力を持っていて、あっという間に私達を巻き込んで運び去っていく。

 

 

どれだけその場に立っていたのだろう。

ようやくその光景の魔力から解けた私は、踵を返し、ホテルへ走る。

明日のために練習できることがまだあるはずだ。

私は直感していた。

物語は、まだ終わらない。

 

 

OP.7 留学の話。 その1 「ウィーンのまつねこ荘」

OP.8 留学の話。 その2 「先生」

OP.9 留学の話。 その3 「美しき青き」

OP.10 留学の話。 その4 「招待状」